晴れた日は日和下駄履き街歩き

思いつくまま、気の向くまま。

日和下駄

15年7月3・4週<12(日)〜25(土)>

 

 このところ「日本神道史」精読(1回目)。半分ほど進む。一般的な日本史の本も併せ読む。神祇の世界も政治や社会の動きと無関係ではないからだ。

 

 体系としての「神道」が成立したのは、天智・天武・持統の時代だ。この頃、律令統治が完成した。統治者がいずれも優秀だったことと、藤原不比等のような政策リーダーの構想力が利いたのだろう。加えて中国・朝鮮との関係が悪化し国内をまとめあげようというコンセンサスも寄与した。歴史を作るには「人」と「機」が必要なのである。

 

 いくつかの抗争を経ながらも、とりあえず天皇を中心とした古代国家システムは完成した。しかしこの律令システムは100年と保たなかった。諸国の王(豪族)を実力で征服したうえでの大王(天皇)体制ではなかったからだ。各地の王の既得権を認めつつ、妥協した形での大王権であったためだ。例えば各地の国司は中央から任命されたものの、地域経営は実体としての権力者である郡司や里長は地元の豪族が担うこととなった。とても日本的だとは言えるものの、構造そのものに根本的な矛盾を内包したままの妥協体制だから、不比等のような「声の大きな」政策リーダーがいなくなれば体制はもつはずがない。基礎をしっかりと打ち込んでいないから令という建物の耐用年数が短かくならざるを得なかった。

 

 神道も状況は同じだ。建前としては記紀に見られるように、アマテラスが各地に在来する八百万の神々を従えるという中央集権的な体系が構想されていたが、これも多くの国つ神が「生きている」ことを前提にしたうえで、無理やり天つ神の体系に組み入れようするものであり、ひとつの物語である。だからこの構想も時間的にいくらも保たなかった。結局は、中央は畿内の有力社だけを管理するだけに後退し、国つ神の管理は地方に投げ出された。天つを神はとうとう国つ神を支配できなかったのである。

 

 以上のような国家や寺社の統治システムの行き詰まりの背景には、国家ではなく国民経済が胎動し始めたことがある。だから中世という時代にはとても興味を引かれる。再生産という発想はまだないが、人々が利益志向という活力をもって確実に動き出した時代である。時代区分としては、院政の始まりから徳川家康が江戸に開幕するまでを指すのだろうか? 国家統制が弱まったというのか、地方分権が進んだというのか、ともかく中央政府はカネが回らなくなり、地方は豊かになった時代である。荘園という名で民間地主が増え、税金を逃れるために農地を社寺にどんどん寄進していった。資金力をもった寺社たちは全国に系列の寺や神社ネットを作っていくのである。地域には金貸し(この頃になると貨幣経済の勃興が見られる)や運送業者が輩出し金融や物流を担う「悪党」が輩出し戦国大名を生み出す温床となった。また班田収受という令が崩れ、有力農民は新しい農地を開拓し私有化し大規模化し、そのなかから武士が誕生していったのだ。今でも自然災害は尽きないが、当時も同じ状況だっただろう。当時は科学的な知識に欠けていた面もあったためか、当時の人々は病気や天変地異は人の犯した罪に怒った神仏の祟りから生ずると信じられていた。経済力に恵まれた人々は罪を祓い、一身の安寧を祈るため盛んに自社への参詣を行ったのだ。その意味で日本人の神仏信仰のルーツはこの中世時代にあったと自分も考える。