晴れた日は日和下駄履き街歩き

思いつくまま、気の向くまま。

日和下駄 15年7月2Wー5(日)〜11(土)

 

 今週は曇りや雨の日が多かった。そろそろ関東も梅雨明け近いか。この一週間、気になったこと。人の心の闇である。まず大分の事件。怒りに任せ、放火しわが子を焼き殺す、どんな事情があったにせよこの心理の飛躍が全く理解できない。次は国立問題。四面楚歌の状況の中でも「解っちゃいるけど止められない」、この心理状態も小生にとっては理解の外だ。同じ理由から「原発」も然り。

 

 今週は、国学院神道の講義があった。今回は仏教との習合についてだ。日本人にとって太古から自然の驚異、天変地異はすべてカミだった。実在する「神」ではない。いつも周囲に感じる恐れ・敬う「モノ」や「気」であった。良いカミ、悪いカミという区分はなく、人間のもつ罪や穢(けが)れが原因でカミは良くも悪くもなるのである。だからカミに祟られないように自らの行いを正しく清浄にしなければならない。これが日本人の原初の発想であった。おそらく仏教の伝来で、初めて日本人は「神」を認識したのだ。どんなに仏教が広まろうと、科学が進もうと神は日本人の傍にいた。現在でも老若男女、神社を参る。日本人には刷り込まれた宗教観だからだろう。

 

「蕩尽する中世」(本郷恵子、新潮選書)を読んだ。中世の時代を「富の移転」、「消費(蕩尽)」という切り口から捉え直し、摂関期→院政期→鎌倉期→南北朝期→室町期を通観する。中央が富を集約する律令システムは400年経過して内部から綻びを来す。跋扈する荘園経済が富を収奪する別ルートをつくり日本は分権化していく。幕府や天皇家は年貢が入らず金づまりに陥り、寺社や院は荘園領主となり集まる富(生産物や銭)で絢爛な堂宇や神殿をつくり、また全国に系列寺社を作ることで大いに蕩尽する。また政権に任命されたはずの国司が勝手なことをして中央に富を移転させずに独り占めするのである。悪党という存在である。疲弊する経済は次第に金貸しの財力に頼ることになる。芽生え始めた通貨経済もそのトレンドを助長した。

 この消費拡大のなかで神道も変わる。担い手が天皇や貴族に加えて庶民がこの世界に参加する。神仏習合によって神道や神社が一般庶民に分かりやすくなったことも手伝った。しかし経済システムとしては再生産がない収奪の構造であることは律令時代と変わらない。いわば焼畑農業のイメージである。内部に抱えた矛盾(エネルギー)はどんどん大きくならざるを得ない。拡大しない経済のなかにおいては、他者のものを盗み我が物とする他はない。戦争が起こるのだ。時代は戦国の世へと移る。本質的な解決は江戸開府まで待たねばならないこととなる。